『私にとって福音とは』 北九州クリスチャンの集い 原田昌樹

  福音、それは伝道者である私にとって最も重要なテーマです。キリストの十字架と復活の教理は耳にたこができる程に聞いてきましたし、何度も何度も語ってきました。だから当然私は理解していると自負していたのです。しかしそうではありませんでした。10年程前に、試練の中でストレスが重くのしかかり、もう大丈夫だと安心していた依存症が再燃焼したのです。やめたくてもやめられない状況に陥ってしまい、自分がどれほど偽善者で汚く、愚かな者であるかを間のあたりに見せられ、「こんな私は死んだほうが日本のキリスト教会のためにも、家族のためにもいい」と追い詰められていったのです。そんなとき「わたしの目には高価で尊い」という聞きなれた御言葉が思い起こされ、神様は私の心に、伝道に励んでいる私ではなく、偽善者で汚く、愚かで死んでしまいたいと嘆いている私を見て“わたしの目には”と語りかけてくださったっているのがわかったのです。罪に死んでいる者を救い、いのちを与える福音が、あぶり絵のように浮き上がってきた瞬間でした。この経験が私にとって福音理解の原点になったのです。その驚くばかりの恵みに突き動かされて、7年程前から、近隣のJR駅前に立ち、街頭伝道を始めました。数年が経過して、「イエス様を信じてやり直したい」という人々がひとりひとりと増やされてきました。しかし、大半は何らかの社会的ハンディーを持っている方々でした。右に左に飛び回り、一生懸命に彼らの更生のためにがんばっているのに、再びホームレスや刑務所に戻ったり、逆にののしられたり、何度も裏切られたりしました。そんな時、あの福音の原点に立ち返り、「彼らも私同様、神様の目には高価で尊いんだ!」と言い聞かせたのです。しかし現実は腹立たしくなり、愛が冷え、疲労を覚えてきました。家出した青年が連絡のないまま数ヶ月が過ぎていく中で、そんな私に神様は、「どうして怒っているのか。おまえがやっていることは愛じゃないよ。人を変え、福音を届けるのはわたしの仕事。あなたは私を信頼して気楽にしなさい」と心にささやいてくださったのです。

 

 『福音は自らがたとえ劇的な経験をしても、相手に伝えるのは神様の役目なんだ。神様に信頼して気楽にすることが福音なんだ』と再び福音に対して目が開かれ、肩の重荷がとれていきました。その後、青年も帰ってきて、神様が変え続けてくれています。このような状況の中で、ある日、神様は二人のエホバの証人に出会わせ、2年近い聖書研究が始まったのです。私のいとこが熱心なエホバの証人ということもあって、彼らが何を信じているのかを知りたいとも思ったのです。数ヶ月が過ぎていくうちに、彼らが見えない律法の綱で縛られていることがわかり、福音をことばで説明しましたが、議論になるばかりで打ち切り寸前までなりました。その後に最初は二人の女性でしたが、元長老と奉仕の僕の男性二人に代わりました。なかなか進展しないときに、A先生が「本当にエホバの証人をキリストに導きたいなら、あなたが同じ土俵にのらないとだめですよ。それとあなたには証があるからその証を伝えてあげてください」と助言くださったのです。 その助言に従っていくうちに相手の心に変化が生まれ始めました。輸血拒否の学びのときに、一生懸命に医学的説明をするもと長老の方に、私は率直に質問しました。「今、まさに死のうとしている方が目前にいて、イエス様に輸血を求めているとき、イエス様は医学的説明をして輸血を拒否なさるだろうか。私が信じているイエス様はいのちを失ってでも相手のいのちを救われるお方です。あなたの信じているイエス様は違うのですか?」・・・その質問にその方は考えました。そして次の週にはA先生が来られる予定だったのですが、訪問される長老が代わり振り出しに戻ったのです。残念でしたが主のみ旨にまかせました。聖書研究は中止を告げられて終ってしまったのですが、神様はエホバの証人をとおして、さらに明らかに福音の実体を学ばせてくだいました。私にとって福音は神の力そのものです。またゆったりとくつろげるソファのようです。彼らが福音を受け取ることができたなら、どんなに荷が軽くなるでしょう。どんなに家庭があたたかくなるでしょう。どんなに日々が安らかでいられるでしょう。そう願いつつ日々祈っています。