「宗教なるものに翻弄されて」元研究生現家族T.K.


 私のJWとの出逢いは、28年前です。5歳上の姉が手紙により研究を始めたのです。そののち姉はやめますが、最後の挨拶を受けた母は、包容力に溢れた司会者との別れが惜しくて、思わず「私でも出来ますか?」と口走り、結局家族ぐるみでの付き合いとなりました。私の育った所は、門中という父系同族の繋がりによる血縁が強く、大型の亀甲墓に親族で納骨するため、祖先崇拝が盛んです。因習に囚われており、その苦しみが、「祖先崇拝からの解放!」というJW勧誘に隙を与えてしまっています。当時は、祖母含め9人所帯であり夕食も銭湯の番台を交代で見ながらの慌ただしさの中、家族揃っての食事は日曜夕方が主でした。そんな環境で、元々引っ込み思案だった私は学年が上がるにつれ内向的になり、母は心配でなりません。遅く帰宅した父に「私は心を鬼にして父親の役割までしているのに、他人の世話ばかりで家族を省みてくれない。一人で男の子を育てる自信がない。何とかして欲しい!」という夫婦喧嘩が始まり、小さな心を痛めました。中学生になると体の変化に戸惑い、JW的純潔教育が仇となりノイローゼ症状が出現。周りの目が気になり出し、給食の味さえ解らなくなり、教室移動の廊下で倒れてしまうのではという程の緊張状態で、中1の2学期より登校拒否が始まりました。とうとう中3の6月より長期欠席となり、父の会社の手伝い・銭湯の掃除と番台・英語教室という生活でした。
 トラック野郎の父とは違い、JWの英語の先生は教養と品があり憧れていたので、母から研究を勧めら
れた時は交流を楽しみに快諾しました。進歩しない研究生でしたが、「楽園」の本で悪魔サタンの迫害を学んだ直後に金縛りに遭い、もしかして!という思いも芽生えましたが、対人恐怖を押してまで王国会館へ行こうとは思いませんでした。いろいろなことを経てやっとの思いで、一年留年して中学生活を終え、地元の普通科へ進学すると同級生が先輩になっている状況から不安定になり、保健室登校から長欠へと陥りました。担任から定時制転入かアルバイトを指導され、叔父の勤める木工所で働かされるも馴染めずに終わり、定時制への偏見から最終選択の精神衛生センター(現精神保健福祉センター)へカウンセリング通所。中学でも数度カウンセリングを受けて似た診断でしたが、一つ違ったのは「あなたはお父さんを憎んでるみたいね!」という言葉が妙に腑に落ちてしまい、パンドラの箱が開いたのでした。その頃、伯母の勧めで、落ちた魂を込める祖先供養をしたのが司会者の耳に入り、研究中断。この件も手伝い父への反発は益々深まり、会社の手伝いを拒否し、擦った揉んだの末にとうとう家庭内暴力にまで及んでしまいました。私自身の人格的問題も全て父に責任転嫁し、現実逃避のため父への憎しみを生き甲斐にしていました。そんな頃、母方の祖母が亡くなったにも拘らず、JWの母は告別式でお焼香せずに親族会議へと発展しました。その席で「例え親であっても人間崇拝になるので、エホバ神以外は拝みません!」と宣言したそうです。周りは狂ったのではないかと大騒ぎし、離婚話も出たのですが、毅然とした母の態度に感心しました。信仰というものは、こうも人を強くするのかと、憧れすら抱いたのでした。
 しかし、証人になる資格のない自分への葛藤が、父への憎しみを深めました。父が触れる物が汚らわしく感じ、自分専用の皿を使う・父の声を聞くと吐き気がして気分が悪くなるので、耳栓を常用していました。結局父とは13年も口を利かず、ストレスが原因で22歳の時に網膜剥離で手術。父は私の家庭内暴力が原因で片耳の聴力が落ち、父息揃って軽度障害者になり、家族病理の恐ろしさを身を持って体験しました。3年近い引きこもりから、20歳で定時制高校へ復学。様々な経歴・年齢の人達に揉まれ、反発しながらも世俗世界を知りました。世俗世界との折り合いで悩んでいた時、元司会者に相談すると「人間の細胞は7年周期で入れ替わるから、エホバへの信仰と助けで人格的変貌を遂げられる!」と言われ、別の兄弟と研究再会。卒後は、親を介さない自力でのアルバイトも経験し、少しずつ社会で生きていく自信を取り戻しました。その後福祉専門学校へ進学し、昼間は学童保育でパートしました。大人に甘えるとはどういうことか、それが子供の発育にどう影響しているのかを観察し、私自身の子供時代を追体験する場となりました。様々な親子を通して親の愛情が伝わるか否かで、子供の情緒に影響を及ぼすことを発見しました。その上、学校の実習(児童相談所・一時保護所・養護施設)で虐待された子供達と関わるうち、私の子供時代や親って満更でもなかったのでは?との思いが脳裏をかすめます。愛情がありながらもすれ違ってしまう親子の不幸に悩み、卒後はケースワーカー助手として精神科デイケアで3年勤めました。その間に祖母の死をめぐり家族の結束が深まり、また母が病気になり輸血問題で主治医ともめるという経験を通し、JW の信仰と自分自身を見つめ直す必要性に迫られました。精神科の患者さん達との出会いも、JW の教えと世俗生活とに引き裂かれ、どちらにも属せなくなっていた異常さに気付けたからで。

 相変わらず父との冷戦は続いていましたが、解決には自分のアイデンティティーを確立するしかないと思い、中学時代の牧師兼カウンセラーにかかります。私の中学時代のカウンセラーの見解は、「戦後生まれの、甘やかされた世代は貧弱なので、ワザと教育的に関わった。エネルギッシュな父親の陰でおびえていたが、精神的には健康だった。」でした。「それならもっと介入して欲しかった」と思いつつも、仕事上カウンセリングの限界も理解できたので、許す気持ちになれました。その後、アダルトチャイルドの治療の為ワーキングホリデイでオーストラリアに1年滞在。平等主義が徹底した大らかな国民性に、オープンになれました。福祉施設でボランティアをしながら、日本人カウンセラーにも出会え、やっとアイデンティティーの確立に辿り着けました。また、文化によるノイローゼの原因の違い(儒教国では世間体・欧米では自立不安)を学び、世間体で自意識過剰になるのは愚かだと痛感。現地の日本語の群れやべテル訪問で、日本のJWがいかに軍隊的規律に囚われているのか、日本宣教を経験した兄弟から知ることができました。
 帰国すると、パートナー生活で精神的に追い詰められた妹が限界に達し、一人暮らしを始めました。実
家に戻る度に泣き叫んでヒステリーを起こしていたとの事。その後、妹の後にパートナー生活をしていた19歳の姉妹が寝込んでいた時に、見舞いに来た同年代の研究生?をアパートに上げた事が大問題になり、彼女はうつ病で実家に戻ってしまいます。妹は、「若い人の見本であるべき立場なのに。エホバを第一にせず人間に恋をして堕落するのは馬鹿らしい。自業自得としか言えない!」と、興奮していました。期待を掛けていた後輩だけに、失望感の大きさは解るものの、JWへの疑問を持った初めての瞬間でした。
 東京では、私と悩みを共有している超党派に参加し、時代に合わせたリベラル過ぎる聖書解釈に度肝を抜かれながらも、JWの囚われを急激に揺さぶられました。その為「エホバの証人の悲劇」からJWTCに繋がった時に、理解しやすかったのですが、中澤先生の「正統派の教会」がなぜか感情に引っ掛かるのです。ある集会で、牧師の方に「三位一体の証拠を示してくれなければ信じられない」と食い下がり、「神の奥義は人間には理解できないので、そこまで求めるのは人間の傲慢だ!」と言われ、JWTC からも足が遠のいてしまいました。しかし、JWTCのことは心の中では気になりながらも、恋愛・国家試験・就
職と目まぐるしくて通えずじまいでした。しばらく振りで出席したJWTCのクラスでの学びは、傷付いた心に癒しをもたらせてくれました。今度は、素直に講話が耳に入って来ます。超党派とは違い、教理面での間違いを理解させてくれ、ゆっくりながらも確実に囚われから解放されました。クラス後の喫茶店での交流で「自分・家族が救われるだけでは充分ではなく、知った人が被害を食い止めるのは勤めではないか!」との情熱に、心が揺さぶられました。まず知る事から始めようと思い、妹の勧めに従いまた研究生に逆戻りです。
 そんな頃、妹の宣教地へ、親子3人で訪問する機会に恵まれました。JWTCのメンバーを通して現地の宣教師にも逢え、励まされました。一般の教会以上にJWが急成長している様子を間近にし「日本で狭い畑を奪い合っても仕方ない。打てば響き・労ってもらえる宣教環境。」は、若い力を発散させ達成感を味わえる場になっています。

 躓きの種も蒔きましたが、全く歯が立ちません。今は、まだ時期ではないのでしょう。私自身まだ力不
足なので、今は知識習得に専念しようと思います。いつか、解放された私の清々しさを彼女達にも味あ
わせてあげたいです。
 最後に、JWの苦しみを戦争漫画に例えると「欲しがりません勝つまでは。鬼畜米英。天皇陛下万歳!」→「欲しがりませんハルマゲドンが来るまでは。鬼畜バビロン。ものみの党万歳!」を彷彿とさせます。囚われている多くの人達の上にも、一日も早い救いが訪れるのを願ってやみません。

詩篇116:5 主は哀れみ深く、正義を行われる。まことに、わたしたちの神は情け深い