我が子=19歳の質問 稲益久仁子

親にとって我が子の成長は大きな喜びです。私にとっても、子どもの成長はとても楽しみであり、喜びとなっています。

ものみの塔を脱会してから早いもので16年になり、当時、長男は小学1年、長女は3歳でしたが、現在は、22歳と19歳になりました。

エホバの証人を辞めてから子育ての再スタートをし、未熟な親のままではありますが精一杯の愛情を注ぎながら生活してきました。時折、子ども達にとってカルトの影響はあるのだろうか、どの程度心や身体に傷をおっているのだろうか、親としては忘れて欲しい過去の出来事をどの程度記憶として残っているのだろうか・・・と心配したりする事も多くありました。

私の救出が成功し、子ども達の年齢も若いから回復は早いとも一般論で言われてはいましたが、本当にそうなのか?本当は誰も解らないだろうとも思いました。

それからは、エホバの証人問題とも“縁”があって関わってきましたから、多くのエホバの証人の2世たちと接したり、話を聞いたりする事で2世たちの苦悩と葛藤の凄まじさから「私も証人を辞めていなかったら子ども達は相当苦しんだだろう」と思っていましたし、子ども達もおそらく2世として生きていただろうと想像し他人事ではないと感じていました。ですからその思いは、事あるごとに家庭で話題にしてきました。
 

脱会してまもなくキリスト教会で受洗し教会生活をしたときは、子ども達は一緒に教会に通い教会学校で楽しくしていました。ものみの塔とは違う自由がありましたから、のびのびと成長していきました。長男が小学5年生ぐらいのときに「僕は今日から教会にはいきません。」と宣言した時も、自分の気持ちを素直に言えた事を褒め認めて、主人と子どもの成長を喜び感謝していました。長女も「わたしも!」と付け加えていたことを思い出しています。(いまでは教会へは時折行っている二人です)
 

クリスチャンとして何よりも助けられたのは神様が何事も一番に心配してくださるという恵みでした。子ども達のことも「大丈夫、神様が成長させてくださる。親が心配したってどうにもならない。一番に心配してくださっている」でした。でも時々大切なことを忘れて心配してもいました。
 

では、事実どの程度、子どもの記憶に残っているのか聞き取り調査をしてみました。長男はかなりの記憶があることがわかり、長女は当時3歳だったにもかかわらず、集会の記憶だけはあるようでした。親としては忘れたい・忘れて欲しい部分の記憶(懲らしめ・幼稚園に行かせず、野外奉仕と集会に無理やり参加させたこと・勝手なおもちゃの処分)も勿論ありました。

しかし、マイナスの面だけでもないようでした。心の痛みをわかる分、友達にはおおらかで優しい性格でした。多くの友人を持ち、皆から愛される性格の持ち主でもあり、小学・中学・高校と楽しく充実した日々を過ごしているようでした。心のやさしい若者に成長しているのも確かでした。
 

私がこのような事を書くと同じ様な子どもさんを持つ方々が過度に心配をされても困ります。

この事は稲益家で起こった事として読んでください。


今回書きたかった事は、こうなのです。

子ども達が19歳くらいになった時、次のような質問をされたのです。
  「どうして、お母さんはエホバの証人になったの?」

  「俺は被害者でお母さんは加害者だよね」

  「いまごろ、被害者ぶられても困るんだよね」

  「もし、エホバの証人だった時に俺(わたし)が交通事故にでも遭って輸血が必要になって

   いたら殺されていたの?」

  「なぜ、そんな危険な宗教が判らなかったの?普通わかるよね?」

  「エホバの証人の次はキリスト教か。いいかげんにしろよ。」

  「俺は無宗教だ。信じない教だな。」
などなどの共通する質問でした。どちらかと言えば親への腹立たしさというのが本音でした。それも二人の子どもですから私にすると二度です。それぞれ19歳の頃でした。何故なのか、年頃も共通して19歳。自宅から離れそれぞれに生活していますから、多様な価値観の友人がいることや大学の学びで知識も増し、世間一般の常識も少しずつ知り、青年としての自己の確立なんでしょうか.成長の過程で大人への一歩なのでしょうか。とすると、戸惑っている場合ではなくて大いに喜ばなくてはならないのでしょうか。

私にすると不意打ちをくらったような、「どうして今そんなこと聞くの?」という思いでした。
・子ども時代にも謝罪しているがそれとは違う。

・大人になってもう一度話を聞いて欲しいのか?

・謝罪して欲しいのか?

・子ども時代には言えなかったのか?

・これも成長している証なのか?

・普段の私の行いがそうとう悪いのか?

 

私は親として今一度、心からの謝罪と現在の心境を話すことになりました。それしかないのです。その時の子どもの感情に答える必要があるのだなと感じました。

それは親と子の会話というより大人と大人の話し合いでした。そこで子ども達に負い目の気持ちがあること、ずっと申し訳ない気持ちであったこと、エホバの証人になった経緯などを素直に伝えました。良い話し合いの時が持てたと思います。親として話すべきことを話してこなかったんだなと反省もしました。
 それからは逆にエホバの証人や他のカルトについての話も以前の様に話し合うことができているように思います。

長女は秋田県内の大学で学んでいますが、大学の講義で教授がオウム真理教・統一教会・エホバの証人は危険であると学生たちに話してくれたと言っておりました。娘は大学の講義で話されたことに驚いたようでした。

長男は自宅アパートに伝道に来るエホバの証人と話し合いをしているというのです。話はまず、相手の話を1時間くらい聞き、それから自分の経験を話すそうです。すると次回は人数が増えての再訪問で、それからは来て欲しいと願っても来てくれないとか・・・。また、私がどこで間違いに気づいたかを知りたがりました。それを元に現役の証人達に伝えようとしています。

簡単には伝わらないと思いますが、息子なりの挑戦だそうです。


そんなこんなで、確かに子ども達は成長し、親も子どもに育てられ、カルト問題は親を見て反面教師として学び、相互に成長し合っている事実を恥ずかしながら書かせて頂きました。


ちょうどそんな時に小説『1Q84』を読みました。この小説にはカルト宗教の2世たちが主役で登場しています。JWTCでも話題に取り上げられている小説です。

その中でこんなセリフがあります。

「私はもうこれ以上誰の勝手な意思にも操られはしない」

この思いは我が家の子ども達の思い、いや、多くのカルトの被害者の気持ちでもあると読みました。だからこそ、小説の中の主人公もしかり、2世として育てられた人たち、そして、我が子たちも含めて強く生きて欲しいと願ってやみませんでした。


カルトを経験しているからこそ、本当の自由の価値も学び、生きることへの貪欲さも与えられているとも思うのです。


子どもたちよ!強く生きてください。そして親たちよ!子どもの話に耳を傾けなさい。それが出来ていなかった私の思いと願いです。
JWTCの皆様が益々活躍されますようお祈りしております。感謝して・・・